現場の思い出「インドネシアでの大学建設」

1985年1月15日、成田空港に一歳の長男を抱きながら見送る妻を残し、
単身で、空路インドネシアに向かった。
そして、シンガポールで飛行機を乗り継いでおよそ8時間後、
首都ジャカルタの空港に降り立つ。

私物の大きなスーツケースひとつと、現場に頼まれて日本から飛行機で運んできた
建設資材を台車いっぱいに積んで、通関に向かった。
この初めてのインドネシアの通関は、その大量の建設資材があったがために、
かなり手こずったのだが、何とか通り抜けることが出来た。

私は、「前途多難だな」と思いつつ、空港ロビーまで出迎えに来てくれた副所長と
事務主任に合流し、現場車に乗り、ジャカルタからハイウェイでおよそ一時間、
午後8時、現場宿舎に入った。

現地について、簡単に説明する。
インドネシアは、かつてオランダの植民地だった。
太平洋戦争における日本軍の進行により、オランダの植民地支配は崩壊し、
戦後、独立国家となった。国民の90%がイスラム教徒であり、
その数は2億人と世界最大である。日本との時差は2 時間で、
現地時間の夜6時が日本の夜8 時である。水道水は飲めない。

私は、入国前、伝染病対策のため日本でコレラ等の予防接種をした。
赴任が決まった時、私は家族帯同 を会社に希望したのだが、治安が悪いとの理由で
却下され、単身赴任となった経緯がある。

実際、現地に行ってみると、社員の安全のため、夜の宿舎には拳銃を携帯した
ガードマン2名が当直していたほどである。

私は、この地で、私を含めた日本人社員3名とインドネシア人スタッフ数名と
大勢のインドネシアの職人さん達とで、大学を建設する。公用語はインドネシア語である。
インドネシア人スタッフは少し英語が話せる。その他はインドネシア語しか話せない。

まだ、サウジアラビアの現場で働いている作業所長は遅れてインドネシアにやって来る。

翌日、現場に行った。現場のガードマンも拳銃を持っていた。
現場では、仮囲いと仮設事務所設置工事が行われていた。

仮設事務所内には、-日に5回メッカに向かってお祈りするイスラム教徒のために、
お祈り専用の部屋を設置していた。 仮囲いが完了すると、杭工事が始まる。
杭は、アースドリル杭だった。杭工事に使用する生コンクリートは、
ジャカルタの生コン工場からミキサー車で運搬した。

杭工事が終わると、 土工事、鉄筋工事、型枠工事と躯体工事が続いた。
躯体工事で使用する生コンクリートは、 ジャカルタから運搬するのではなく、
現場内にバッチャープラントを作り製造した。

この現場内で製造する生コンクリートの配合計画書(コンクリート1m3当りの
セメント、水、砂 利、砂の重量比率の算出等)は私が作った。
通常、日本では生コン工場のコンクリート主任技士が配合計画書を作る。
したがって、私が生コンクリートの配合計画書を作るのは初めてだった。
しかし、やろうと思えば出来るものである。書籍を調べながら計算し、
配合計画書を作り、試し練りを行い、圧縮強度試験を行うと所定の強度が出た。

1985年4月、つまりインドネシアに来て、3ケ月が過ぎるころ、
インドネシア語が話せるようになっていた。
必要に迫られると学校で習ったことのない外国語でも話せるようになるものである。

おはよう、こんにちは、こんばんは、ありがとう、さようなら、
土を掘る、 鉄筋、 型枠、 コンクリー ト、 良い、 悪い、1、 2、3..、
仕事で必要な言葉から順に身に付いて行く。

現場近郊の市内の市場の様子

ある日の出来事である。大量のコンクリートを打設する日、スタッフ全員、
朝6時早出をする約束をしていた。しかし、当日、日本人以外は
全員30分遅刻だった。朝のお祈りをしていて遅れたとのことだった。

大切なことは人それぞれ多種多様である。
まして、外国人のそれと日本人のそれは大きく異なることがある。
日本人の常識が正しいとは限らない。

「戒」という言葉があるが、彼らは、宗教上の「戒」を現場の
集合時間より優先したのである。しかし、仕事は何とかなるもので、
その日のコンクリート打設は予定通り終えることが出来た。

34 年後の今、私は「皆、大切なことを大切にしながら働いていることは
素晴らしいことだ」と思う。しかし、当時の私はまだ若かったから、
当然、遅れてきたスタッフを厳しく注意した。
そして、現地スタッフのリーダーに、「クナパ マラカ(なぜ怒るのか)」と
冷ややかな鋭い眼で言われた。

当時のインドネシアには、枠組足場(鋼製の規格化された足場材)が
ほとんど無かった。したがって、その現場は5階建ての大面積の
大建築ではあったが、外部足場は全て竹で組んだ。

竹を縄で縛って、組み上げていったのである。足場板は敷かない。
したがって、その足場上で作業する職人は、丸い竹に足を乗せることになる。
竹足場に人が乗ると、ギシギシと音を立て、撓んで揺れる。

人は皆、高所でこの竹足場に乗ると怖いから、落ちないように注意する。
注意をするから、墜落災害は起きない。私もその竹の外部足場に乗ったが、
怖いから落ちないように集中した。だから落ちない。

現場で発生する災害の多くは、安全なはずの施設にたまたま不備があって
気づかなかったときや、油断と貫れが引き金となって発生するのかもしれない。

更に、この現場では、梁スラブのコンクリート強度が出るまで支持する
鋼製の仮設支柱(日本ではサポートと呼ぶ)、この代用品として丸太を使った。

現地の型枠工はノコギリも電動丸ノコも持たない。
持つのは小型の斧である。ひとつの斧で、全ての型枠を加工する。
丸太の支柱もその斧で加工する。見事な職人技である。

左:家族を現場に案内 右:現場事務所内  

イスラム教徒は年に一回およそ1か月、日中は飲食を一切しない
ラマダンという期間がある。

現場で働く大多数が1985年5月半ばからラマダン入りした。
ラマダン期間中、午前8時から午後5時の現場稼働中は水も食事も取らず、
日が暮れてから、彼らの宿舎で御馳走を食べるのである。

勿論、我々日本人は普段通りの生活を送った。
この1か月のラマダンが明けると約 1 週間の休暇がある。
地方からの出稼ぎ労働者も家族の待つ田舎に帰る。
日本の年末年始のような感じだ。

したがって、職人さんのほとんどが居なくなるこの1週間は現場も全休となる。
1985年6月、日本から家族を呼び、現場の日本人社員の皆と一緒に、
ラマダン明けの休暇を使い、インドネシア国内の旅をした。
バリ島~ジョグジャカルタ~現場~ジャカルタの旅である。

世界遺産 ボロブドール遺跡(ジョグジャカルタにある世界最大の仏教寺院)

それから10ヶ月後、現場が無事竣工し、日本に帰任するときにも、家族を呼んで、
シンガポール~香港~沖縄の旅をした。
このときは、当初、シンガポールで家族と落ち合い、シンガポール観光の後、
成田に直行する予定だったが、折角の機会だからと、
旅程を急逮四日間延長して、香港・沖縄にも立ち寄った。

現場マンとしてまだまだ末熟な若者が、異文化の中でもがき苦しみながらも、
周りの人達の尽力によりインドネシアの大学建設は完工した。

その初めての海外赴任の中で、私の一番楽しい思い出として今でも心に残るのは、
まるで冒険の様な未知の世界への旅の中で、家族と共に経験した数々の出来事とその景色である。

大学教授とその奥様を宿舎に招待してのパーティ

 

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